自分で考えるってなんやろか。

はじめに
こんにちは。しょげまるです。
「自分の考えを持つ」みたいなテーマって何かありますよね。
そういうタイトルの本があったような気がします。
では自分で考えるとはどういうことなんでしょうか。
そもそも自分の考えって何でしょうか。
これは最近自分が悩むテーマの一つでもあります。
会話をしていても、何かの本で読んだことを暗誦しているような感じがしてしまう。
その本の内容に共感した、という意味ではある種自分の中に同じような考えが根付いていたとも考えられますが。

読書とは他人にものを考えてもらうことである。
こんな言葉があります。
読書とは他人にものを考えてもらうことである。
1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失って行く。
自分はこの言葉に共感はしたのですが、では自分で考えるとは何なのか。
最近考えたのは「実感の伴う体験・経験」があるものが自分の思考に強く関わってくるんじゃないかなと思っています。
逆にそれ以外の知識は実感もないため身に付く知識にはならない。
介護の大変さは介護をしていた人にしか分からない。
大変そうだなぁ、と本を読んで学ぶ事はできたとしても、介護に似たような経験をした事がなければ実感が伴わない。まぁそりゃそう。
フランクルの「夜と霧」という本もありますね。収容所の体験をもとに人生について語った本です。
あれは自身の体験を元に書いているからこその説得力があるのでしょう。
だから他の人にも響くし、内容に圧倒的な説得力が生まれる。
結局本で読んだだけの内容というのは実感が伴うことが少ない。
少ないと表現したのは、本を読んでいて「これってこういうことだったのか」と過去の体験と結びつくことがある、という事で本から得られる実感もあるだろうと思ったからですね。
しかし大抵読んでいても、実感を伴って読書することなんてそうないです。
自分は一度だけでしょうか。友人関係で追い込まれていた時の岡本太郎の「強くなる本」を読んでいた時ぐらいでしょうか。
読みながらカッと熱くなり、太郎が言いたかったのはこういう事かとどこか決心に近いものを感じました。
まぁただそういう経験は本当に少ない。自分の過去の体験や今直面している問題に強く結びつかないと、実感を得られる事はないんだろうなと思います。
読書をするというのはこの実感を探す、という事なんですかね。
ショウペンハウエルは本の中でこうも言っています。
自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる。
その理由は次のとおりである。(中略)その心理はちょうどそれを強く要求している時に現れたので、精神の中に確固たる位置を占め、さらに消滅する事はない。
本の中だけの人間にならないように、色々なところに出向いてはいろんな体験を通して得た実感の上で思索を重ねていかないとな、と思った今日この頃です。
(結局この記事も実感を伴っておらず、他人の思考を借りたに過ぎないんですけども。)
いろんな所で写真を撮りながらこの実感を探していこうと思います。
